船橋市 アラブの春
エジプト・コプト教会の爆破など、一向に衰えることのないISのテロ行為。アラブ諸国の混乱は落ち着くどころか、ますます混迷を深めています。「アラブの春」と呼ばれた民主化運動とは何だったのか? その後の経過は? 日本では珍しい女性の中東研究家として活躍する岩永尚子先生がわかりやすく説明します。今回は、チュニジアとエジプトの動きです。
そして今、連載開始から3年が経過しましたが、その後もアラブ諸国の政治的混乱は続いています。「何が起きているのかさっぱりわからないわ」という感想や、「アラブの春は結局どうなったの?」という疑問がよせられているため、現段階での各国の状況を簡単にまとめてみたいと思います。
「アラブの春:その後」として今回取りあげるのは、地理的に隣接しあうチュニジア、エジプト、リビアの3カ国です。「アラブの春」と称される一連の民主化運動が起きたのは、この3カ国のほかにも、ヨルダン、シリア、バハレーン、モロッコ、イエメンなど多数ありました。「アラブの春」の後に政権が崩壊した国もあれば、ヨルダンやモロッコなど、王政を維持した国もあります。政権崩壊後も戦闘が続いているシリアとイエメンについては、別の機会に取り上げてみたいと考えています。
今回取りあげる3カ国は、いずれも長期政権が民主化運動によって崩壊へと導かれました。ところが、現在では、チュニジアが唯一の民主化成功例、エジプトは逆戻り、リビアは内戦へと、まったく異なる結果となっています。「アラブの春」をどのように評価すべきなのかについては、まだ年月が必要となるでしょうが、いったん、現時点での経緯を比較検討してみます。
まずは「前編」として、チュニジアとエジプトの経緯を紹介します。
アラブの春の発端となったチュニジアの今は?
チュニジアは「アラブの春」の発端となった国です。2010年12月のいわゆる「ジャスミン革命」は、路上で青果を販売していた失業中の青年が、警察の取り締まりを受けたことに抗議して、焼身自殺した事件に端を発しました。この事件をきっかけに、高い失業率に抗議する、若者を中心とした市民のデモが発生しました。
デモはしだいに、23年間も続いていたベン・アリ政権の腐敗や人権侵害を批判するデモへと変容したのでした。その結果、強固だと思われていた長期政権があっけなく崩壊したのです(2011年1月)。
政権崩壊後の2011年10月には、実に1956年以来、初めての議会選挙が行なわれました。この選挙で第一党となったのはナフダ党で(イスラム主義:得票率41%)、ついで「共和国のための会議」(中道左派の世俗主義:得票率13%)、エタカトル(「労働と自由のための民主フォーラム」左派:得票率9%)の順でした。この3党がそれぞれ大統領、首相、議長のポストを占めるという合意のもとに、組閣が行なわれました。
ところが、この頃からイスラム主義勢力と、世俗主義勢力の対立が明確になり、2013年には、左派の政治家が暗殺される事件が相次いで発生しました。また、イスラム過激派によるテロ事件や、イスラム主義勢力とチュニジア国軍との対立もみられるようになっていきました。また、政治的には、野党勢力が内閣や議会の解散を要求し、議会をボイコットしたため、チュニジアは社会的にも政治的にも混乱状態に陥ってしまいました。
この危機的状況を打開するために、イスラム主義者と世俗派の仲裁に入ったのが、チュニジア最大の労働組合であるチュニジア労働総同盟(UGTT)で、さらにチュニジア商工業・手工業経営者連合(UTICA)、チュニジア人権擁護連盟(LTDH)、弁護士の団体である「全国法律家協会」という3つの市民団体が加わりました。この4団体が「国民対話カルテット」で、これらに対して、2015年にノーベル平和賞が送られたのは、まだ記憶に新しいかと思います。
イスラム主義者と世俗主義者双方の指導者たちが集結し、2カ月にわたって交渉が進められました。「ジャスミン革命」3周年を前に皆が妥協し、なんとか対立を回避した結果、2014年1月には暫定内閣が新たに作られました。そして、ようやく新憲法が可決されたのでした。
新憲法はイスラム教が国教であると定めながらも、法の支配に基づく「市民国家」であるという(注:ここでの法はイスラム法ではない)、イスラム主義者と世俗主義者の双方に配慮されたものになっています。危機的状況において、イスラム主義者と世俗派の双方が協議のテーブルについた背景には、もちろん上記の4つの集団の努力があったことは確かです。ですが、おそらくそれだけではありませんでした。
チュニジアが危機的状態にあった2013年に、ちょうどエジプトの民主化が暗礁に乗り上げ、同年6月にはイスラム主義を打ち出したムルスィー政権に対するデモに乗じて、軍が政権を奪うという事態が発生していたのです。つまり、エジプトでの民主化が白紙に戻っていくのをチュニジアの人々は見ていたのです。だからこそ、「エジプトの二の舞になってはいけない」と、多様な集団が協議に参加できたのだともいわれています。
ようやくできた新憲法に則って、2014年10月には議会選挙が、そして12月には大統領選挙が行なわれました。その結果、2012年に結成された世俗派である「チュニジアの呼びかけ」党が第一党となり(217議席中87議席)、イスラム主義のナハダ党は67議席を獲得して第二党となったのでした。そして、大統領には、ベン・アリ政権下で外相や国会議長を務めたムハンマド・ベジ・カイドセブシが選出されました。
このようになんとか民主的に政権交代を行なったチュニジアですが、「チュニジアの呼びかけ」党の内部の分裂や後継者の問題などもあり、政権がまったく問題なく安定しているとは言い難い状態です。観光が主要な産業であるにもかかわらず、2015年3月には首都チュニスでの博物館襲撃事件などテロ事件が相次いで発生しています。16年にもリビア国境に近い都市で、市民50名以上の死者をだすテロが発生し、非常事態宣言が発令されるなど、薄氷を踏むような状態が続いています。
つづく